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中・新石器人の平和的交流

大昔の採集民と農耕民はうまくやっていた



by Michael Balter on 11 February 2013, 3:40 PM


文化交流?この画家の復元に描かれるような、ドナウ川沿いの狩猟採集民は独自の風習を維持していたが、後からやってきた農耕民の文化も取り入れていた。そのため、この狩猟採集民の墓には採集民に典型的なビーズと農耕民に関連するビーズの両方が入れられていた(右上のネックレスを作るのに使われるビーズなど。)
Credit: (Illustration, Left) Mauro Cutrona; (Top Right) National Museum in Belgrade; (Bottom Right) Dušan Borić


もしかしたらけっきょく、渓谷は平和だったのかもしれない。何千年も前、バルカンの採集民と初期農耕民は平和に共存して生活していた、と骨格遺物の新しい研究はいう。しかしこの文化交流があり、もしかすると血縁交流もあった居心地の良い姿は、すべての地域での濃厚の拡大には当てはまらなかったと思われる、と他の研究者たちは注意する。

狩猟と採集から農耕への移行は人類史におけるもっとも重大な大騒動の一つだった。その移行は、11,000年近く前に始まった新石器時代の始まりを画した。その頃、近東の人々が植物を栽培化、動物を家畜化し、定住性コミュニティの中で継続して使う住居に腰を落ち着けた。一方でヨーロッパでは、いわゆる中石器文化の移住性の採集民が狩猟、漁撈、および野生植物の採集を続けていた。新石器文化ははじめ、アナトリア(現在のトルコ)からギリシアへと広がったと思われ、バルカン地域まで届いたのは8500年前より後のいつかだった。研究者たちは採集民と農耕民が出会ったときに何が起こったのかを長らく議論してきた。彼らは戦争になった、平和だった、あるいは単純に互いを無視したのか?

バルカンにある遺跡は、農耕民が新しい生き方とともにやって来た騒がしい頃の貴重な姿を垣間見せてくれる。1960年代以来、考古学者たちはルーマニアとセルビアの国境にあるドナウ川峡谷沿いの何十もの遺跡より、中石器時代から新石器時代にわたる500体以上の骨格を発掘してきた。まだ中石器人は豊富なチョウザメをはじめとする川魚を獲り、他の狩猟採集民との長距離の関係を維持していた。それは遠く黒海からの海生二枚貝で作られたネックレスによって示される。しかし明瞭に異なる新石器スタイルの個人装飾と技術も、セルビアのレペンスキ・ヴィール(Lepenski Vir)などの後期中石器遺跡から発掘されている。レペンスキ・ヴィールは埋葬と半人半魚のイメージで彫刻された巨礫などの芸術が豊富な村落だ。

文化交流の可能性に集中するため、カーディフ大学(英国)の考古学者、ドゥシャン・ボリッチ(Dušan Borić)とウィスコンシン大学(マディソン)の考古学者、T・ダグラス・プライスはドナウ峡谷にある9遺跡から産した153体の骨格の、歯におけるストロンチウム同位体の比率を分析した。これらの骨格は13,500から7500年前、すなわち中石器時代のすぐ前から新石器時代初期まで、と年代測定されている。ストロンチウム87とストロンチウム86の同位体比率は異なった土壌と岩石で大きく変化し、摂取されたストロンチウムは子供の歯に集積され、ある人物がどこで成長したかについての一生涯のシグネチャを提供する。歯と地元の環境のストロンチウム比率を比較することによって、研究者たちは誰がある特定の地域で成長した人で、誰が別の場所で成長した移住者かを見分けられる

ボリッチとプライスは直接炭素年代測定によって年代が直接決定されてる骨格を分析し、新石器文化の最初のサインが見られる頃にストロンチウム組成に大きな変化があったことを突き止めた。彼らは今週それをProceedings of the National Academy of Sciences誌に報告した。ドナウ川沿いの中石器人のストロンチウム同位体比は彼らが生活をしていた川の堆積物を反映したものだった。しかし8200年前、これより著しく高い比率と低い比率をもつ骨格が出現する。これらの骨格は文化が元来の中石器のままに見える遺跡にすら現れる。「非地元」な個体はドナウ川から遠く離れた地域から来たように思われ、移住者の数は時間を経るとともにジャンプする。たとえば8200年前より前は、レペンスキ・ヴィールのほぼすべての埋葬者が地元民だった。しかし8200年から7950年前までの間に埋葬された19人のうち5人は非地元民だった――そしてすべてが女性だった。

ボリッチとプライスは非地元民は中石器文化の移住者のものであると結論づける。彼らの、人物の食性を表す、歯と骨における窒素同位体比率はその考えを裏打ちする。非地元民は海産物より陸産物の食性に典型的な窒素比率を持つ傾向があった。これは魚を食べない農耕民に予想されることだ。埋葬者に中石器人と新石器人が混じり合ってることは、新石器文化が中石器文化を置き換えるまでの少なくとも200年にわたって、2つのグループが隣り合って生活していたことを示す、とボリッチとプライスは結論する。「採集民コミュニティは新石器社会ネットワークと敵対するのではなく、その中に組み込まれていった」とボリッチは話す。「この図は大部分において平和な共存の一つだ」

ブリストル大学(英国)の考古学者、アレクス・ベントリー(Alex Bentley)はこの研究は「偉大な論文」だと呼ぶ。彼は新石器人の女性が中石器コミュニティへと移住していったことを示す証拠は「すごく面白い」と続ける。以前の遺伝的研究は農耕が西に向かってヨーロッパへと広がるとともに反対のことが起こったことを示していたからだ――すなわち、狩猟採集民の女の子が新石器コミュニティに入って農耕民の男の子と結婚したということ。

実際にユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンの考古学者、ロン・ピンハシ(Ron Pinhasi)は、このドナウ峡谷のシナリオは中石器-新石器移行期のヨーロッパ全域のモデルにはならないだろう、と注意する。「私はこれらの集団を[採集民-農耕民交流の典型的な例ではなく]孤立例だと見ている」とピンハシは話す。

Science NOW
Ancient Foragers and Farmers Hit It Off
Michael Balter, 11 February 2013

原論文
Dušan Borić and T. Douglas Price
Strontium isotopes document greater human mobility at the start of the Balkan Neolithic
PNAS February 11, 2013, Published online before print February 11, 2013
doi: 10.1073/pnas.1211474110
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